
追悼から瞑想、追憶へとイタリア巡礼の旅が深みを増し、ついにはオペラの夢に至る。2026年5月13日、東京・銀座のヤマハホールで開かれた「阪田知樹ピアノ・リサイタル」は、全曲フランツ・リストの作品で構成され、ピアノソロによる二幕のオペラを観たような感動をもたらした。阪田はリスト晩年の曲やヴェルディのオペラの編曲作品も組み入れ、超絶技巧だけではないリストの内省的な本質を高度な表現力で浮き彫りにした。
ヤマハホールでの公演は10年ぶり2回目。その間、2016年にハンガリーのフランツ・リスト国際ピアノコンクールで1位に輝いた。2026年はデビュー15周年でもあり、リスト作品の演奏を通じて阪田の驚くべき成熟ぶりを示す公演となった。最近は作曲家としても活躍する阪田の選曲は渋い。阪田とリストが一体となり、ピアノによる「無言歌劇」ともいえる長大な楽曲を新たに創り出したかのようだ。
老成した作曲家の内省面に光
1曲目は『リヒャルト・ワーグナー―ヴェネツィア S.201 R.82』。冒頭から意表を突くレアな曲だ。低音域の沈鬱な響きから始まり、重々しい歩みが続く。鐘の音のような運命の動機が鳴ると、静かに下行して終わった。華麗な超絶技巧とは無縁。次女コジマの夫、義理の息子ワーグナーを追悼するリスト71歳の作。1883年、ワーグナー、ヴェニスに死す。阪田は一音一音を祈るように真摯に弾いた。半音階や増三和音による神秘的な響きが浮き彫りになり、20世紀のメシアンのピアノ曲を思わせる演奏でもあった。
休みなく2曲目『瞑想(ヴィンツェンツォ・ベッリーニの追憶に)S.204 R.86』が始まった。繊細な分散和音に乗って優美な旋律が溢れ出した。阪田の滑らかでとろけるような音色はまさに瞑想。老成したリストの内省面に光を当てる秀演だ。

さらに続けて『2つの演奏会用練習曲S.145 R.6』。第1曲「森のざわめき」は高音域の分散和音が細やかで流麗。繰り返される動機の変化も印象深い。低音域から駆け上る長大な音階は重厚でダイナミックだ。第2曲「小人の踊り」は、浮き上がるような軽妙なダンスといった趣。踊りの情景全体が薄いベールに包まれたみたいな夢見心地の響きも出していた。
前半で盛り上がったのは『2つの伝説 S.175 R.17』。第1曲「小鳥に説教をするアッシジの聖フランシスコ」は、右手による高音域の繊細な音の粒立ち、左手が築く重厚な大伽藍のコントラストが秀逸。高音域の分散和音は滑らかだ。第2曲「波の上を渡るパオラの聖フランシスコ」も低音域の音階の動きが大伽藍を築く。音の流れは波のように細やかだ。長大なクレッシェンドはスペクタクル。圧倒的なクライマックスを築いて前半を締めくくった。

悲劇を予感する克明な演奏
後半は『巡礼の年 第2年「イタリア」S.161 R.10』より、3つの「ペトラルカのソネット」から始まった。第4曲「ペトラルカのソネット第47番」と第5曲「同第104番」、第6曲「同第123番」。いずれも内省的で郷愁を誘う演奏だが、特に「第104番」がよく歌っていてロマンティシズムの極みだ。
実は今回の曲目の中で驚きがなく、普通の感じだったのもこの3つの「ペトラルカのソネット」だった。超絶技巧ではないリストの側面を聴くのに打ってつけの、すでによく知られた名曲であるせいか。それでも阪田の演奏は優しく夢見心地で、バランスが良い。リストの文学的な側面を引き出す夢語りだった。

最後はヴェルディのオペラの世界を追想するパラフレーズのひととき。歌劇『イル・トロヴァトーレ』より「ミゼレーレ S.433 R.266」は重低音から始まり、悲劇の旋律がイタリアの光を浴びながら劇的な盛り上がりをみせた。歌劇『アイーダ』より「聖なる踊りと終幕の二重唱 S.436 R.269」は、きらびやかなピアノの舞を繰り広げつつ、迫る悲劇を予感させる克明な弾きぶりだった。
『歌劇「リゴレット」による演奏会用パラフレーズ S.434 R.267』は、一連のオペラ的なリストの夢語りを締めくくるにふさわしい麗しい歌と超絶技巧、交響的なドラマ性で盛り上げた。オペラを知らなくても十分に説得力がある阪田のナラティブだ。そしてアンコールは阪田自身の編曲によるラフマニノフの『ヴォカリーズ』。リストに続いてラフマニノフ、阪田が、詩的で宗教的な調べを引き継いでいくような余韻を残した。

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介
本ウェブサイト上に掲載されている文章・画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。