
日本近代音楽史の作曲家の作品を見ると、校歌が多いことに気付く。山田耕筰、信時潔、團伊玖磨らは小・中・高校、大学などの膨大な数の校歌を残した。日本には欧米とは異なり校歌を尊重し歌い継ぐ伝統がある。1900年に神奈川県立横浜第一高等女学校として創立された横浜平沼高校の校歌は佐佐木信綱作詞、幸田延(1870~1946年)作曲。同校卒業生の作曲家・二宮玲子はこの校歌を題材にして音楽劇「平沼高校と七つの扉」を企画原案・作曲した。校歌が新たな音楽の扉を開く。
「荒城の月」がモチーフの校歌
2026年3月15日、横浜市西公会堂で平沼高校創立125周年ファイナルイベントとして音楽劇「平沼高校と七つの扉」が上演された。現代の高校生の美咲が第一高女の講堂で過去の高校生・幸子と出会い、異なる時代の2人が7つの扉を通して交流する物語。脚本・作詞は保科由里子。作曲した二宮自らが卒業生中心の特別編成のオーケストラを指揮。同校卒業生だけで東京藝術大学をはじめ音大卒のプロの演奏家をこれほどまで集めて組織化できることにまず驚く。
「私はオペラを書いてきましたが、今回はオペラ、オペレッタを経て成立していったタイプのミュージカル(音楽劇)を書いてみたいと思いました」と二宮は話す。「平沼高校と七つの扉」で重要な役割を果たすのが同校の校歌。文豪・幸田露伴の妹で、日本人で初めて欧米に音楽留学したピアニストでヴァイオリニスト、音楽教育者で作曲家の幸田延が1916年に書いた。早逝した教え子の滝廉太郎へのオマージュとして、「荒城の月」の出だしのモチーフを冒頭に用いた校歌だ。音楽劇の最後に卒業生中心の観客とともに合唱されたが、「荒城の月」が始まった気がした。

滝廉太郎作曲「荒城の月」と幸田延作曲「横浜平沼高校校歌」の冒頭
「平沼高校と七つの扉」は、ミュージカルで活躍する歌手の吉岡小鼓音、ソプラノの神田沙央理によるポップな歌を散りばめながら、男女共学化、横浜翠嵐高校との平翠戦と応援団、横浜大空襲など現代と過去のエピソードを非時系列的に交差させて進行する。横浜大空襲の場面ではエレクトリックドラムを打ち鳴らして無調風の音楽が始まったかと思えば、フラメンコダンサーのタマラによるダンスが出現するなど、日本近代音楽としての校歌やポップソングからジャズ、フラメンコ、現代音楽まで多様な素材を活用している。ミュージカルにもオペラにも現代音楽にも収まらない新しい音楽劇だ。
横浜大空襲のシーンから発想
「最も腐心したナンバーは3曲目。横浜大空襲に突然タイムスリップし、崩れそうな防空壕で平沼高校の先輩の岸恵子さんがモデルの幸子が歌う絶望から希望へ向かうナンバーです」と二宮は説明する。国際ジャーナリスト兼作家兼俳優の岸恵子著「岸恵子自伝──卵を割らなければ、オムレツは食べられない」(岩波現代文庫)には、横浜大空襲の際に防空壕から一人で抜け出して生き抜いた話が出てくる。二宮はそのエピソードから着想を得て原案を作り、保科に台本を委嘱したという。
「この音楽劇は横浜大空襲のシーンから発想しましたので、クライマックスの3曲目のナンバーから作曲しました。絶望的なシーンですので、テンションが多いジャジーな響きがするかと思いますが、響きの原点はオネゲルの『交響曲第3番《典礼風》』です」。フランス六人組の作曲家アルテュール・オネゲルが1945~46年に作曲した「交響曲第3番」は複調と不協和音を多用し、戦争による人間の苦境を描く。特に第1楽章「怒りの日」は激しい半音階的進行と跳躍が目立つ。無調風と感じたのはオネゲルを意識した音作りだったからだ。

二宮玲子作曲:音楽劇「平沼高校と七つの扉」の横浜大空襲のシーン
「今の高校生にも観てもらいたいので、横浜大空襲に突入したシーンは衝撃的な音楽にしました。そこで最先端のエレクトリックドラマーの森崇さんにお願いし、ドラムとシンクロさせて描く映像に、真っ赤なドレスとスカーフのフラメンコダンサーのタマラさんによる12拍子のカスタネットと舞を絡めてもらいました」。フラメンコは鬼気迫る華やかさで、視覚的にも最も衝撃を受ける場面だった。「フラメンコの後は、オーケストラのメンバーの特殊奏法によるチャンスオペレーションの音楽とエレクトリックドラムのコラボレーションも試みました」。現代音楽の手法は手慣れて洗練されていた。
西洋で学んだ技術を集約
ところでこの作品は「校歌史タイムトリップ音楽劇」と銘打たれている。幸田延は第一高女の校歌を1916年に作曲した。「幸田延が作曲した唯一の校歌です。滝廉太郎の『荒城の月』のフレーズで始まり、途中で転調を繰り返し、耳慣れない増六の和音も用いた凝った曲です。一般の高校生に教えるのは大変だったと思います」と二宮。32小節の短い校歌の中に当時最先端だったドイツロマン派の技法の数々が注ぎ込まれている。
二宮は和声的な革新性のほかに、この校歌の特筆すべき点を挙げる。「単一モチーフによる全曲の統一性、ト短調で始まり同主調のト長調で終結する調性構造、日本語のフレージングの歴史的変化(最初は強拍から始まる日本調で、後半は西洋調のアウフタクト=弱起のフレージング)」の3つだ。「幸田延が西洋で学んだすべての技術が集約された恐るべき校歌です」。幸田延のフロンティア精神を彼女唯一の校歌からも聴き取ることができる。
| 作曲家 | 校歌(作詞者) |
|---|---|
| 幸田延 | 横浜第一高等女学校(現横浜平沼高校)校歌(佐佐木信綱) |
| 山田耕筰 | 明治大学校歌(児玉花外) 関西学院校歌「空の翼」(北原白秋) 兵庫県たつの市立龍野小学校校歌(三木露風) |
| 信時潔 | 学習院院歌(安倍能成) 慶應義塾塾歌(富田正文) 開成中学校校歌(古関吉雄) |
| 團伊玖磨 | 神奈川県葉山町立葉山小学校校歌(堀口大學) フェリス女学院校歌(英康子) |
| 伊福部昭 | 札幌市立向陵中学校校歌(飯田広太郎) |
| 武満徹 | 三重県立四日市南高等学校校歌(谷川俊太郎) |
音楽劇を観て校歌を聴けば、幸田延への関心が強まる。萩谷由喜子著「幸田延」(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス、2023年)で彼女の生涯を知る。ウィーン留学、皇族への御進講といった華やかなエピソードのほかに注目すべきなのは、東京音楽学校(現東京藝大音楽学部)の教授職を追われる話だ。幸田延は初代校長の伊沢修二からの信頼が厚く、学内では実力主義が貫かれていた。しかし学内外の妬みや偏見などから組織的な排斥運動が起きた。波乱万丈の幸田延を主人公にした映画やテレビドラマ、特に「連続テレビ小説」ができたら、おもしろくなること間違いなしだ。
日本の声楽曲の質を底上げ
「藝大を追われることなく、そのまま第一線で活躍していれば、もっと多くの素晴らしい作品を生み出したと思います」と二宮は言う。幸田延は幼少期に邦楽(長唄)を習ったが、「ウィーンに留学し、当時の最先端の作曲技術を精一杯学んで帰国し、日本での西洋音楽の礎を築きました」。二宮は幸田延の傑作として「ヴァイオリンソナタ第2番ニ短調」を挙げる。「大学のレッスンで学生のために分析しましたが、本当に無駄がなく素晴らしい作品」と指摘する。
幸田延: ヴァイオリンソナタ 第2番 ニ短調/ Nobu Koda: Violin Sonata No.2 d-minor
幸田延の作品は確かに少ない。室内楽では日本初の「ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調」と「同第2番ニ短調」。二宮が挙げた「第2番」は第1楽章モデラートのみで、池辺晋一郎が補筆して2006年に出版された。ピアノ曲や声楽曲もいくつかあるが、驚くべき作品は、1915年に大正天皇の即位を祝して作曲した全4楽章の「大礼奉祝曲、カンタータあるいは混声四部合唱つき管弦楽曲」。山田耕筰が日本初の交響曲「かちどきと平和」を1912年に作曲して間もない時期に、本格的な管弦楽伴奏付き声楽曲を書いたとは驚異である。
作曲家の偉大な才能は校歌にも滲み出る。校歌が日本の近代音楽史に与えた影響は計り知れない。全国各地の各種学校の校歌に当代一流の作曲家と詩人が取り組み、日本の近代歌曲や合唱曲の質が底上げされた。母校と地域社会へのつながりや和を重んじる日本人の精神性と美徳の形成にも寄与した。二宮は「平沼高校と七つの扉」をさらに進化させたい考えだ。100年歌い継がれてきた校歌とともに日本の音楽が未来の扉を開く。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介
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