
ふんわりと羽布団にくるまれているような、幸せな気持ちにいざなってくれる本作を恨む気はさらさらないのですが、あまりの気持ちよさについつい原稿を打つ指も止まりがちなので困ってしまいます……。
世にバラードの名作は数あれど、“バラード集の決定版”と称されているのが本作。
ほかにもいろいろなジャズ・シンガーがバラード集を残しているなかで、なぜ本作が“決定版”なのか……。聴きやすさを通り越して、聴き手を眠りの世界にまで引き込んでしまうほどの“魔力”を秘めているからなのか……。
その“魔力”とやらを、寝ないで考えてみたいと思います。
How Long Has This Been Going On? (feat. Frank Hunter)
アルバム概要
1958年に米ニューヨークのスタジオでレコーディングされた作品です。
オリジナルはLP盤(A面6曲B面6曲の全12曲)でリリース。同曲数同曲順でCD化もされています。
メンバーは、ヴォーカルがカーメン・マクレエ、ピアノがドン・アブニー、ベースがジョー・ベンジャミン、ドラムスがチャーリー・スミス、オーケストラ指揮&アレンジがフランク・ハンター。
収録曲は、すべてジャズ・スタンダード・ナンバーのカヴァーです。
“名盤”の理由
冒頭に記した“気持ちよさ”はどこから生じるのかを掘り下げて考えてみると、ストレートなのに説得力のあるカーメン・マクレエの“表現力”が前面に押し出された企画になっていることが挙げられるでしょう。
ここで言うストレートとは、ピアノトリオを軸としたシンプルな伴奏に溶け込む彼女の歌唱のことで、それはスウィング時代のゴージャスさを重視した歌い方とはまったく異なることを意味します。
1950年代後半になると、それまでのジャズ・オーケストラをバックに歌い上げるようなサウンド志向では表わすことのできない、内省的とも言えるような“表現力”がジャズ・ヴォーカルのシーンでも求められるようになります。
つまり従来の、メロディやリズムを自由に変化させるフェイクや、意味のない言葉を並べるスキャットといったテクニカル性とは異なる付加価値への評価が高まる流れのなかで、そうした要望を十分に満足させてくれる内容だったことが、本作を“名盤”にした理由だと考察しています。
いま聴くべきポイント
1920年生まれのカーメン・マクレエは、ジャズ・シンガーとしての実質的なデビューが1950年代になってからと遅かったせいか、ジャズ史においてエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンと並ぶ影響力をもちながら、その陰に隠れがちな存在だったことは否めません。
ちなみにエラは3歳上、サラは4歳下。
ジャズのスウィング黄金期である1930年代からその名を馳せていた2人とは違い、遅咲きだったことが“隠れがちな存在”と思われている要因なのかもしれません。
しかし彼女の場合、雌伏の期間がビバップの勃興期にあたり、その立役者たちとの多くの出逢いがあったという幸運に恵まれました。
つまり、遅咲きだったからスウィングの成功体験を引きずることがなく、フェイクやスキャットといったテクニックに依存せずに感情を表現するビバップ以降のジャズを体現できた、というわけです。
そしてそのスタイルは、以降のジャズ・ヴォーカルのお手本となったと言っても過言ではありません。
本作にはオーケストラとの共演も収録されていますが、ピアノトリオをバックにゆったりと歌う曲(『いつの頃から』『マイ・ロマンス』『ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ』『エンジェル・アイズ』の4曲)における存在感のほうが圧倒的に“ジャズして”います。
ぜひ、彼女が自信をもって本作に混在させた、オーケストラとピアノトリオでの“ジャズ・ヴォーカルの違い”を味わってみてください。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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