
1990年代初め、シアトルで生まれたグランジ・ムーヴメントは全世界を巻き込み、一大ブームとなった。ニルヴァーナ、パール・ジャム、サウンドガーデン、アリス・イン・チェインズらがハードで生々しいロック・サウンドで活躍、それ以外の地域のバンドも1980年代までのメインストリームと一線を画する“オルタナティヴ=別選択肢”な音楽性で支持を得た。そんなグランジを代表するバンドのひとつ、サウンドガーデンのギタリストだったキム・セイルが自伝『A Screaming Life: Into The Superunknown With Soundgarden And Beyond』を刊行した。
ライターのアデム・テペデレンとの共著となる本書ではキムの出生や幼少の話からサウンドガーデンの結成、グランジの勃興と大成功、現在(2026年)までの軌跡を追っていく。
シアトルから世界へ、グランジの大躍進
1960年、インド系移民の両親のあいだにシアトルで生まれたキムだが、育ったのはシカゴ郊外パーク・フォレスト。そこで出会った日系人のヒロ・ヤマモトとバンドを組むことになり、シアトルに戻って当時ドラマーだったクリス・コーネルが合流してサウンドガーデンが生まれる。1984年に初ライヴを行った彼らはハスカー・ドゥやメルヴィンズの前座を務めるなどしてシアトルのシーンを盛り上げていく。そして1986年に“C/Zレコーズ”からリリースされたコンピレーション『ディープ・シックス』にはグリーン・リヴァー、マルファンクシャン、メルヴィンズ、スキン・ヤード、ザ・U-メン、そしてサウンドガーデンが楽曲を提供。このアルバム、そして発売記念ライヴこそが「グランジの誕生」だったとキムは語っている。
彼はまたシアトルで“Subterranean Pop”というファンジンを出していたブルース・パヴィットとも交流。半年後に“サブ・ポップ”レーベルからリリースされたコンピレーション『Sub Pop 100』の重要性にも言及している(同作はソニック・ユース、少年ナイフなどシアトル出身でないバンドが多かった)。
そんなシアトルでの活動について、キムは他のバンド達との連帯を意識しながらも、音楽性についてはサウンドガーデンが「当時のシアトルでパンク・メタル・サイケデリアの融合がユニークだった」と一線を画していたと主張、“プログレッシヴ・ポスト=ハードコア・パンク・バンド”と名乗っている。
“オルタナティヴの祭典”といわれた移動フェス“ロラパルーザ”について、彼が当初から「『ウィ・アー・ザ・ワールド』みたく仲間内で群れるのが嫌だった」と懐疑的だったというのも面白い。
とはいえ、彼らがスクリーミング・トゥリーズの紹介で“SSTレコーズ”と繋がったこと、クリスがコロージョン・オブ・コンフォーミティやフェイス・ノー・モアに誘われたこと、それまでLAメタル色があったアリス・イン・チェインズがサウンドガーデンのEP『Screaming Life』を聴いて路線変更したことなど、さまざまなバンドとの接点が自らの口から語られているのが興味深い。
1991年8月にパール・ジャム『Ten』、9月にニルヴァーナ『ネヴァーマインド』、10月にサウンドガーデン『バッドモーターフィンガー』という歴史的名盤が連続してリリースされる。さらに1994年にはアリス・イン・チェインズ『ジャー・オブ・フライズ』、ニルヴァーナ『MTVアンプラグド』、パール・ジャム『ヴァイタロジー』がいずれも全米ナンバー1ヒットを記録するなど、シアトル勢は大躍進を遂げる。
去っていった友たち
ただ、そんな成功をキムがどこか他人事として捉え、またビジネスの煩雑な諸々のこと、名声や財産を目当てに寄ってくる人間関係にウンザリしていたことも語られている。それは彼1人だけではなく、才能溢れるミュージシャンが何人も押し潰されていった。
1990年にマザー・ラヴ・ボーンのアンディ・ウッドがオーヴァードーズで亡くなったことは、上昇気流にあるシアトルのシーンに影を落とすことになるが、決定的な精神的ダメージをもたらしたのが1994年、ニルヴァーナのカート・コベインの自殺だった。
カートの死体が発見された4月8日、サウンドガーデンのパリ公演の直前にキムはそのことを伝えられ、放心状態でライヴを行ったという(他のメンバー達はまだ知らなかった)。終演後にバンドはツアーに同行していた、やはりシアトルの同胞TADのメンバー達と楽屋で泣き崩れたと記されている。
なおキムがその後、R.E.M.のピーター・バック宅に招かれたとき、窓から見える邸宅に何か不吉なものを感じたが、後になってそれがカートの最後の自邸だったと聞かされたという。
さらに2017年、クリスの自殺が彼らを襲う。キムは彼が抗鬱剤ロラゼパムを常用していたことを知っていたものの、サウンドガーデンの公演後、ホテルの部屋で自らの命を絶ったことについて、その異変に気づけなかった自責に苛まれている。事件の後、サウンドガーデンは封印。キムはMC50やサード・シークレットなどのバンドで活動しながらも、ロック界の最前線から身を退くことになった。
豊富なエピソードの数々
本書にはさまざまなエピソードが散りばめられており、元々サウンドガーデンのファンでなかった読者もグイグイ引き込んでいく。
キムが少年時代からのKISSのファンだったことが書かれているが、トリビュート・アルバム『KISS MY ASS』(1994)への参加をジーン・シモンズに直接打診されて有頂天となるが、「どの曲をやりたい?」と訊かれて『パラサイト』『ショック・ミー』を挙げて、共にエース・フレーリー作曲のため、ジーンをムッとさせて凍り付く。またドラマーのマット・キャメロンが十代のころそのものズバリのKISSという名前のバンドでライヴを行っていたら、本家KISSから訴訟をちらつかされたという逸話も笑ってしまう。
日本のファンにとって気になるのは、1994年の来日公演だろう。キムは「すべてがオーガナイズされていて、ただ演奏だけすれば良かった」と語るが、大阪公演の後、ホテルの部屋で休んでいるとノックがあった。覗き穴から見ると、シルエットのような黒い影が立っていた。後に知ったのは、このホテルで過去に火事があり、死者が出たのだという。
それ以外にも1997年、サウンドガーデンの最初の解散後にエイドリアン・ブリューやメタル・チャーチのカート・ヴァンダーフーフと合体する可能性があったなど、さまざまな情報がページに込められている。
クリスが生前にパソコンに保存していたラフ7曲がサウンドガーデン向けに書かれたか、それともソロを前提にしたものだったかを巡って、バンドと未亡人のあいだで裁判も行われたが(本書では言及せず)和解に至り、2024年の終わりにサウンドガーデン最後のアルバムに着手したところで『A Screaming Life』は幕を下ろす。キムは「クリスが誇りにできるようなアルバムにする」と宣言しており、ファンが希望を抱きながら本を置くことができる。
本文は決して回りくどくなく、平易な文体で書かれている。巻末に多くの写真と長めのキャプションがあり、本稿の時点で邦訳の予定などは明らかになっていないものの、英語が得意でないファンであっても気合いで読みこなせるだろう。本書はそれだけの価値がある1冊である。
■『A Screaming Life: Into The Superunknown With Soundgarden And Beyond』

発売元:HarperCollins
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