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今月の音遊人:坂入健司郎さん「生活に根ざした音楽が、私の音楽への興味の源だった」

今月の音遊人:指揮者 坂入健司郎

音楽監督を務める東京ユヴェントス・フィルハーモニーをはじめ、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、大阪交響楽団など、全国のトップオーケストラに次々と客演し高い評価を受け続けている指揮者の坂入健司郎さん。音楽家としての坂入さんを形成してきたものや考えについてお話を聞きました。

Q1.これまでの人生の中で一番多く聴いた曲は何ですか?

電車の発車メロディです。3〜4歳の頃、夜更かしして観た『タモリ倶楽部』で、あるピアニストが山手線全駅のメロディを弾き比べ、タモリさんと音楽評論家が熱く語り合っていたのに衝撃を受けました。その後、私が山手線を一周している様子を母が撮ってくれて、そのビデオテープの発車メロディの部分を擦り切れるほど聴きました。特に東武東上線池袋駅の『Passenger』がお気に入りで、池袋へ録音しに行ったほどです。
同じく日常の音楽として、野球の応援歌も大好きでした。毎日のようにテレビから流れてくるいろいろな球団の曲を聴きながら、「ここの応援歌はなぜこんなに暗いのか」「この転調はすごい!」と幼いながらに心を動かされました。こうした生活に根ざした音楽が、私の音楽への興味の源だったと思います。
クラシックで最も聴いた曲を挙げるのは本当に難しいのですが、ブルックナーの交響曲第8番第2楽章は相当聴き込んだと思います。小学校5年生のときに『N響アワー』でロヴロ・フォン・マタチッチ指揮の演奏を観たことがきっかけでブルックナーに夢中になり、中学生の頃には東京や神奈川の図書館をめぐって二週間に一度、100枚ほど様々な作曲家のCDを借りていましたが、特にブルックナーの交響曲第8番第2楽章の聴き比べが一番楽しかったですね。

Q2.坂入さんにとって「音」や「音楽」とは?

「音」と「音楽」は分けて考える必要があると思います。音は本来ただの“振動”ですが、人はその物理現象そのものではなく、振動の際に生まれるギャップを音として認識しているように思います。喧騒のあとに訪れる静寂を「しーん」という言葉で表現することがあるように、人間は無音ですら「音」を感じています。一方で音楽は「シミュラクラ現象」に似ています(例えば、黒い点が3つ集まると人の顔に見える現象)。音が三つ以上連なる、あるいは重なると、単なる音が「音楽」としての意味を帯び始めていくのです。
そして音楽は、形のないものや言葉では捉えきれないものを表現する力を持っていると思います。だからこそ私は、音楽を届ける際に言語や歴史、空間を深く意識します。ドイツ音楽にはドイツ語の響きが宿っていると思いますし、作曲当時に演奏された教会や宮殿といった「空間」について思いを巡らすことも欠かせません。そのうえで最終的には、言葉や歴史を超えたものをライブの瞬間でお客様に届けたいのです。音楽は、時間を「刹那」にも「永遠」にも感じさせることができるし、情景や色、香りすら思い浮かばせます。素晴らしい宗教音楽には神の存在を感じさせる力があるように、音楽は見えないものを立ち現せる芸術なのです。

坂入健司郎

Q3.「音で遊ぶ人」と聞いてどんな人を想像しますか?

「音で遊ぶ人」とは、落語の「オチ」のように、音楽の中にある小さな仕掛けやズレ、意外性を楽しみ、それを創造に生かす人だと思います。古典派の作曲家たちはその達人で、とりわけハイドンは音の中にユーモアやサプライズを忍ばせる天才でした。音楽家もまた、そうした落としどころを常に意識しながら音を扱う存在ですよね。だからこそ私にとっては音楽に携わる人みんなが“音遊人”だと思っています。
また私は「音で遊ぶ」とは“ギャップの妙”だと思うのですが、その意味で印象的だったのは、指揮者のニコラウス・アーノンクールが最晩年に振ったベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』をオーストリアのグラーツで聴いたことです。神に捧げる厳粛な音楽の中に、まるで横やりを入れるようなふざけた音型や軍楽隊を思わせる太鼓連打が差し込まれ、それによって祈りの音楽がより立体的に浮かび上がってくる。彼の指揮で聴くと効果は絶大、音で遊び続けた彼の遺言のようにさえ思えました。
初めて“音遊人(みゅーじん)”と聞いたとき、響きが「吟遊詩人(ぎんゆうしじん)」のようだなと思いました。音楽家はかつての吟遊詩人のように、文化や歴史を運ぶ存在でもあるべきです。それぞれの国々のもつローカルな香りを届けるためには、言語や生活、当時の空気まで想像し、作品の解像度を最大限に高めて演奏する必要があります。グローバルな時代だからこそ、楽譜を共通言語として自分の感覚だけで扱うのは危険で、各地の文化を丁寧に運ぶ役割が重要になると思うのです。「音で遊ぶ」とは、音の中に潜むユーモアや真剣さ、歴史や祈りを自由に行き来しながら、それを聴き手に届ける姿勢そのものではないでしょうか。

Q4.楽器や音楽をやっていてよかったことは何ですか?

幸せなことに、中高生のころから憧れていた音楽家たちと実際に出会い、学ぶ機会を得られました。とくに指揮を師事したロシアのウラディーミル・フェドセーエフ先生は「いつでもリハーサルに来ていいよ」と言ってくださり、その後ウィーンやモスクワで多くを学ばせていただきました。素晴らしい音楽を届ける人は、人格も素晴らしい。こういう方々と共演したり友人になれたりしたことが音楽を続けてきた最大の喜びですね。
また、指揮者は音を出さない職業だからこそ、自分の音を出すことに喜びを強く感じています。最近、古楽器のヴィオラ・ダ・ガンバを演奏しはじめ、仲間たちとハーモニーを重ねる根源的な楽しさを久しぶりに味わっているところです。上手いかどうかではなく、自分の出した音が誰かの音と交わって、響きが生まれる瞬間にこそ音楽の本質があると感じています。音楽を通して人の根幹に触れ、深く分かり合える経験は、日常ではなかなか得られないものです。これからも新しい楽器に挑戦しながら、その喜びを大切にしていきたいと思っています。

坂入健司郎

坂入健司郎〔さかいり・けんしろう〕
慶應義塾大学経済学部卒業。学生時代に「東京ユヴェントス・フィル」を創設して以来、精力的に活動を広げてきた。マーラー『復活』など大規模作品で注目を集め、川崎室内管弦楽団の音楽監督として室内楽からオーケストラまで幅広いレパートリーを手がける。国内主要オーケストラとの客演も多く、録音・執筆・企画制作にも携わり、多面的なアプローチで音楽文化の発信に取り組んでいる。
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文/ 長井進之介
photo/ 宮地たか子

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2026.07.06
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